何とも親しみやすい方言で、ちょっと間の抜けた感じで手品をするマギー司朗さん、子供のころテレビで「面白い人が手品をしてる」と思って見ていました。
私が子供のころの手品と言えば「オリーブの首飾り」の名曲が流れていて、大きな箱に美女を入れて胴体を真っ二つにしたり、剣を何本も刺したりで、その後元に戻すみたいな、(今はもっとすごいのがありますが)なんかドキドキハラハラして見ていた記憶があります。そんな同時期にマギー司朗さんのマジックを見て ”笑いを取るマジックがあるのか” と一瞬で好きになったことを思い出しました。
今はどうされているのか、そもそもどんな生き方をされていたのか気になってしまったのでちょっと調べてみました。
まずはプロフィールですが。
本名 野沢 司朗
生年月日 1946年 3月 17日
出身地 茨木県真壁郡下舘町(現 筑西市)
血液型 A型
所属事務 オフィス樹木
配偶者 なし(離婚経験あり)
座右の銘は「自分の弱点は武器になる。弱点をさらけ出せば人は強くなれる」、「芸人は犯罪でなければ何をしたって構わない」
マギー司朗さんは1963年に手品に出会い、趣味で始めたのですが、あまりにも面白くて没頭してしまいプロを目指す事を決めて、なんと17歳で家出をして上京する事に。上京してからは水商売ののアルバイトをしつつ、マジックスクールに通う日々を送る。
1966年- 20歳で道頓堀劇場(東京都渋谷区に存在するストリップ劇場)で初舞台を踏む。当時の芸名はジミー司で、正統派のスライハンドマジック(ギミックを仕込んだ道具なしに手先の技術だけで行う手品)を見せていたという事で手品の腕は確かで正統派マジックをしていたんですね。 という事で1968年 – 正統派マジシャンのマギー新沢に入門する。
『田端グループ』盟友の”ゆーとぴあ’(ゴムパッチンで有名なお笑いコンビ)・ホープ”の助言を容れて、茨城弁を活かした客いじりで煙に巻くスタイル中心の「茨城弁でおしゃべりマジック」に転向したことで売れ出す。
1980年 『お笑いスター誕生』でなんと7週勝ち抜くなど事績を積んで、テレビにも活躍の場を広げる。ちなみに『お笑いスター誕生』は当時大人気番組で、司会は俳優・声優の山田康雄と歌手の中尾美恵が進行を務たお笑いオーディション番組で、実力勝負が要求されていた番組で厳正な審査ならびに審査員による辛口批評が行われていたのが特徴的でした。
『お笑いスター誕生』で優勝したりグランプリを獲得した有名なお笑い芸人は、漫才ブームの火付け役ともいえる「B&B」や「とんねるず」、「ウッチャンナンチャン」等今でも活躍されている方も多数いる。
そんな厳しいお笑い審査の中7で週勝ち抜いた後1981年- 1982年 -「日本放送演芸大賞ホープ賞」受賞するなど、実力を上げていき、現在は弟子もとっている。
芸風ですが、今でも覚えているネタが結構あります。
何が起こるかを先に明かすネタばらしから始まる変則技で、「縦縞のハンカチを横縞にする」とか「麦茶をウーロン茶にする」、「コシヒカリをササニシキに変える」などははっきりと記憶に残っていて、そんなインチキ手品を行いつつ、「うちの近所の八百屋のおかみさんに評判なんだけど、板橋(鉾田町などの場合も多い)に○○って飲み屋があるの知ってる?そこに週5回通う、常連の○○って人知ってる?その人が大好きなマジック、今からやるから」などのトークで繋ぎ、最後は正統派マジックに戻って高座を締めて客も納得。
他にも「これはデパート行けば売ってますからね」と使った道具を説明、「ハンカチが繋がるまでに、二日かかるのよ。ずーっと二日待ちますか?今日は特別に2日前にやったものをお見せしますからね」、と言ってボールやカードの色を変える手品で、「赤?…赤は先週で終わっちゃったのよ」、「こうやって破いた紙が……つながらないってのは知ってるよね?」、「1000円を2000円にするには2000円ないとできませんからね」などとギャグを挟み、笑いを取りながらここという時には、正統派マジックを見せる場合もありました。
茨城弁のゆったりした口調で、なんかとぼけた感じでとぼけたことを言ってとぼけたマジックが面白かったし、たまに正統派マジックを見せて、「やればできるの」みたいな感じでお客さんや茶の間の人に大人気だったのを記憶しています。
今では弟子の「マギー審司」の方が有名かもしれませんが、「大きくなる耳」で「でっかくなっちゃった」みたいな感じで芸風は受け継がれていると思います。
これからもとぼけた感じで世の中に笑いを与え続けていただきたいと思うのと、まだまだこのお笑いマジックは見ていたいと思います。
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